TEXT&PHOTO:JUNYA KATO(PARK inc.)

FOREVER という言葉をフィロソフィーに掲げたのはいいけれど、果たして「永遠」なんていうものは存在するのか。
仮に存在するとして、それはどういう姿で、われわれの前に現れるのか。

そんなぐあいに、アタマだけで「永遠」について考えていた矢先、それは「体感」するものだと我々に気づかせてくれたのが、この「味園ビル」だ。味園ビルが「永遠」という大きな大河のような時間の流れにひっかかる「イビツ」なモノであることは、味園を知る人間なら(もしくはこのサイトに流れ着いたヒトなら)きづいてる。

その理由をさぐりたく、(惜しくも)すでにこの世を去ってしまった創業者の志井銀次郎の「右腕」として、半世紀以上もこの味園ビルに仕えた技術者・岡本 工(たくみ)氏に、話を聞きにいった。なにせ、半世紀以上だ。

「永遠」のヒントは、このビルにある。

岡本
当時の若者は、家庭の事情もあって、
大学に出れる人はなかなか少ない時代だったんだけれども、親父に
「お前は男ひとりで生きていくんやから、技術でも身につけなアカン」 と言われて、それで電機系の学校に行くんですよ。まぁもともと好きやったからね。で、
そこで簡単に技術を学ぶんですが、ちょうどその時に(創業当時の)味園ビルで電機部を募集してたので、入ったのがはじまりですね。

その頃はね、ぼくらなんかペーペーですからね、オーナーの顔なん知らないですよ。2年したって知らないもんもおったよ。
まぁでも言うても当時は技術者もなかなかおらん時代やったし、味園も水商売なんて、夜しか仕事ないもんだから、昼間はアルバで朝日放送や万博に手伝い行くわけや。まだ白黒の時代ですわ。
そんなこんなんでテレビ局や万博で技術を磨いて、味園の仕事がおろそかになって来た頃に、オーナー(以下、岡本さんは親しみを込めて『オヤジ』と呼びます)が 「ああしたいこうしたい」って、ボクに言い始めるわけや。それでどんどん内装が変わってゆくわけ。ビルの建築も自分でやったヒトやからな。こだわりはすごい。
岡本
高度経済成長で、大キャバレーの人気があった時代は、内装いじくると店、休まなあきまへんやん。当時、1日だけで莫大な利益ですよ。今みたいに1万円札なんてないですからね、勘定するだけで眠れんかったし、硬貨で金庫もつぶれましたわ。そんな時代やから、休まないでずうっとそのまま。で、キャバレーが下火になってはじめて、「つぶそうか」ってなるんやけど、その時に「まぁ改装してみよか」って言うわけですよ。だからバブルや、アメリカのLIFE誌に「日本最大級」ゆうて紹介されたことなんかもあって3回くらいかな。まぁいちばん変わらずに残ってるのは地下の「ユニバース」やな。細かくはやったけど、あんまり変わってない。10分の1。そんな感じですわ。いま残ってたらすごいものもそりゃあるよ。まさに(当時の)大キャバレーを最初に見た時は仰天したからね。ここはもう日本じゃないな!ラスベガスかどこかやろ!って。いや、ラスベガスにもなかったんちゃうかなぁ。4階まで吹き抜けで柱がない巨大なキャバレーなんやから。誰がこんなん考えたんやと思ったら、 オヤジですわ。
岡本
まずね、オヤジが、「こんなん作ってくれ」って言うわけや。キレイに図面かくわけでもなく、想像だけで、マンガみたいなん描いて。で、我々は「こんなんできませんよ」「見たことないですもん」って言うんだけど、「せやから作んのや!」と。で、やってみるんやけど、見たこともない方向に鉄を曲げたりせなあかんから、もちろん何回も失敗するんやけどね(笑) でもオヤジは、失敗してもええ、金出すのはワシや、って。面白いのは面白かったけどね。
今でも地下にあるクルクルまわるのとかも、全部オヤジの指示で作ったやつですわ。で、地下のキャバレーの空中ステージの支柱が屋根の上まで伸びとったんだけど。使わなくなって、それをオヤジが「噴水にしよう」言うてね、穴ぶつぶつ開けて噴水にするんですよ。20mくらいかな。とんでもないでしょ? で、ぶわーって水が落ちてきて、キレイなのはキレイなんですけどね、近所から「洗濯もんがぬれる!」「通行人がぬれる!」言うて苦情きて終わりや。

それでもオヤジは納得やったもんな。
あくまで自分の失敗じゃない。まわりから苦情が来ただけや、と。その時にはもう次のアイデアをどうするか考えとったな。

吹き抜けやった大キャバレーを3層(階)に分けた時も、消防法で窓作らなあかん言うて、ただの窓じゃつまらんから、今、外から見えてるけど、木の枝を水道管
まげたヤツでたくさん作るんやけど、それも光らせな寂しい言うてな。

当時は2万個の電球の1個が切れてるだけでうるさかったもんな。…もしかしたらオヤジは寂しがり屋だったんかもな(笑)
岡本
オヤジのアイデアがすべてやね。けど、こっちの方が良いんじゃないかって思うこともあったよ。それに対してオヤジも「そうかぁ」ということもあった。
三人寄れば文殊の知恵という言葉もあるでしょう。想像力が豊かな人がいて、手先が器用な人がおったら、ええもんができる。なかなかおらんかったけどね。

あとね、1つね、もうなくなってしまったんだけど、製作所があったんですよ。オヤジの無茶な注文にも、「いいですよ、やってみましょう」って協力してくれる唯一の製作所が。そのおかげで、ここにしかないもんができたな。いまそういうところないでしょ。コストのことばっかりで。当時はお金のことなんて考えないホンマの職人さんがおったから。

それにしても不思議なヒトやった。建築でも電機でも科学でも、専門的な知識がないはずなのにうまくやってのけた。発明家みたいなヒトやったな。当時パチンコをはじめて自動化させたの、オヤジやからな。なんで特許取らなかったんかなって、死ぬまで言うとったけど(笑) 

それに、いまでこそLEDやけどね、当時、小さい電球で植木に装飾やりはじめたの日本でウチがはじめてやからね。何百万円もかけて、電球用意したわ。
けどその反面、無駄がきらいなヒトだったから、代用品もぎょうさんあった。上のホテルの部屋のライトは使わなくなったアメ車のフォグランプやし、昔はホステスが方向指示器でボーイを呼んでた。ステージの高級スピーカーも本物1発買って、あとの5発は同じようにボクらに作らせた。寸法測って同じ木を買って来て。ボクら、見本があればなんでも作れましたよ。大学4年行かなくてもね、溶接、クロス貼り、大工、全部こなせましたからね。それもこれも、好きなことやらせてくれたオヤジのおかげですわ。ホンマにおもろかった。だから感謝してるんやけどね。
加藤
まさにお話を聞いていると、味園ビルは 「生きた芸術」と言えると思います。新しい古い関係なく、ここにくれば感動でき る、しかも新しい発見がある、というのは素晴らしいです。そして、いまの時代、アイデアがあっても形にできないことも多いですからね。
岡本
それを作れ、って言われて形にしてきたのが我々ですよ(笑)

全部手作りやからね。あんたが座ってる椅子もそうですよ。

でもね、誰も想像できない、とてつもないこと言うヒトがいたから、どこにもないものが出来たんだと思いますよ。